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 社長紹介

鷲田和久KAZUHISA WASHIDA

1977年生まれ
福島県南相馬市出身

Instagram社長ブログ)

2022/5/26 更新


幼少から高校生の頃

塾以外の習いごとは多いほうだった幼少の頃。

書道 6歳から18歳まで12年間
ピアノ 4歳から18歳まで14年間
剣道 10歳から16歳まで6年間(初段)
居合道 13歳から16歳まで3年間(初段)

出品にも挑戦していくつか受賞。
■発明工夫展 入賞3回
小学校1年(市にて金賞)、中学2年(市にて金賞、県にて入賞)

■書道 小学校から高校3年生まで出品する全てのコンクールで入賞
学生最高段位の「特待生」

■島村楽器主催の楽曲コンテスト『トレコン94』最優秀賞
高校2年生で、初めての作曲と編曲で、レコーディングテクニカル賞 優秀賞を受賞

高校は理系でしたが、進路に迷っていた3年生の11月、大学選びの雑誌で「学生社長 年商3000万円」という大きな見出しで多摩大学が紹介されており、父も叔父も商売をやっていたので経営学部が面白そうだ!と気づき進路変更。
文系の勉強をしてきませんでしたが、経営学部では多摩大学が唯一、センター試験で英語と数学だけで受験をすることができ、入学できました。


大学生の頃

1996年 多摩大学経営情報学部 入学
入学から半年くらいはサークルにも顔を出していましたが、オールラウンドサークルゆえに時間の無駄と感じて辞めてしまいました。
バイトは、大学1年の時に塾講師を1年間、大学4年の時にスターバックスコーヒーで半年のみ経験しました。

学生時代に起業を模索

大学1年の頃から起業を模索して、企画書を作っては持ち込みして追い返され、裏付け取るために大量アンケートを取ったり、アドバイスを求めるために経営者に突撃電話したり、書籍の著者に電話したり、何かをしたくて行動していた時期。当時の企画書が残っていますが、今見てみるとこんなひどい企画書で、よく堂々と持って行ったなと思うのと、よくこんなのでお話を聞いていただけたなと思う感謝しかありません。

北矢行男 多摩大学名誉教授

大学2年の12月に、文具雑貨のインターネット通販を始めました。
商材集めに、イギリスのメーカーに直接交渉に行ったり、オーストラリアのメーカーにも直輸入の直接交渉や工場視察に行きました。オーストラリア大使館も間に入ってくれて、協力を惜しみなくしていただけたことに感謝しています。

大学3年、現在は多摩大名誉教授となった北矢行男先生との出会い。その後は、私の公私、全てに関わっていただけることになります。先生がいなければ今の私の姿は絶対にありえない恩人であり「メンター」です。人生で「メンター」と呼べる方に出会えたことが奇跡で、私は最高に運が良かったです。


20代前半

学生起業で就職せずに会社設立するが多難

大学卒業後も文具雑貨のネット通販を継続していました。
私名義で600万円を父から借金をし、文具メーカーに400万円を出資をしてもらい2000年9月25日(23歳)会社設立。

しかし、この文具メーカーから受託する予定だった事業が外されてしまい、期待していた売上が取れなくなり、またネット通販も思うように売上が上がらず、1年後には大赤字。

私だけが文具メーカーへ移籍して会社を清算するように促されましたが、自分だけが生き残る道は考えられず、まだ諦めたくない、という思いもあり、結果的に株を無償譲渡してもらい資本関係の解消となりました。
この時の経験で、在庫は持ちたくない、後払いはさせたくない、そして同質的・量的競争はしたくない、と気づきました。これが当社の「7つの基本コンセプト」の一つ、「同質的・量的競争と一線を画す会社」として掲げています。

2001年9月(24歳)、「お店メール.com」サービス開始。
文具雑貨店を営んでいた父から「店内で携帯電話を使っているお客が多いが、あれを何とかできないかなあ」という一言から、携帯メールを使った販促を考案。
ネット通販で培ったメールマガジンのノウハウを小売店に活かせる!と判断しシステムを自社開発しました。メールマガジンの原稿作成代行も行う、携帯メール配信ASPとしてサービスを開始しました。
私自身はプログラマーではないため、システム開発は外注を使い、資金が全く無い中で始めた事業ゆえに、広告費捻出も苦労して、悪戦苦闘が続きました。

業種は幅広く対応しましたが、どの業種も薄いノウハウしか蓄積できず、また振り返れば料金設定の裏付けはなかったので、受注は困難続きでした。

大学卒業後も北矢先生には定期的に報告のために面会をいただきアドバイスをもらっていましたが、「コアコンピタンスは何だ?なぜお客はあなたの会社から買わなくてはならないのか?」という問いに答えられず、「あなたには出資なんて考えられない」と言われ続けました。

無休、無給、預金残高1万円を切る、何をやってもうまくいかない

『coming-soon』事業を発想するに至る重大な出来事がありました。
それは「お店メール.com」で取引のあった一部上場企業の紳士服チェーン店。そのマーケティング担当者にこんなことを言われたこと。

「社長、ビジネスを確実なものにするには、特許ですよ。特許。お店メールは、特許を取らないのですか?」

特許なんて全く考えておらず、これを機に特許への意識が高まりました。

そして、もう1つの出来事がありました。
IT業界ではない方との協業のための商談中に、私の勉強不足ゆえに回答に窮する場面がありました。この時の恥ずかしさは今でも鮮明に覚えています。
赤字続きで視野が狭くなっており、勉強不足で柔軟な発想も出なくなっていることを痛感し、仕事から離れて、書籍や文献を読み漁りました。

それから10日後、ある文献からこんな一文を目にしました。
「株価の速報を携帯のメッセージに送信するのが米国では流行っている。このアラートは他にも応用できるかもしれない。」

アラートは、「まさに今」か「そろそろ」というお知らせであり、他でどんなところで役立つだろうか?
そして思いついたのが、美容室に電話予約ではなく、個々人ごとに行くペースが異なるのだから、一人ひとりにあったタイミングでお知らせが来てインターネットで予約ができたらどんなに便利な世界になることだろうか。

これが後の美容室予約システム『coming-soon』の根幹となるアイデアになりました。
製品をサロン業界に絞った「選択と集中」、そして「特許」を取得し知的財産を守ることに重きを置き、再起をかけ『coming-soon』事業の立ち上げに奔走を始めたのです。

しかし、相変わらず資金繰りがあまりにも厳しい状況でした。この時は厳しいどころじゃなく会社維持など不可能な状態だったのです。
そして将来有望であった会社を辞めてまで、当社の役員として中途入社してくれた大学時代の同級生がいたのですが、彼には辞めて他の会社で働くことを促し、創業メンバーの橘高(現・取締役)を会社都合解雇にして、少額のバイト代を払い、失業保険でつないでもらっていました。
最低最悪の時期です。


20代後半

資金集めのチャンス到来

2002年(25歳)には美容室予約システム『coming-soon』を考案し、3ヶ月後、ビジネスモデル特許出願しました。
これを機に、北矢先生から100万円の出資をいただくことができ、そして北矢先生が所長をしていた多摩大総合研究所の勉強会でプレゼンのチャンスをいただくことになりました。
準備期間は3週間、主に経営者が50~60人ほど参加していただろう会場で、1時間の事業プレゼンと30分の質疑応答を行いました。
この3週間は事業計画書を練りに練り、プレゼンの練習も何度も何度もやり、当日は時間配分通りにやるだけやりました。
そして、ここで600万円の出資をいただくことが決まったのです。
嬉しさで震えが止まりませんでした。

「彼に出資してもいいと思う人はいませんか?」先生の問いかけに、会場から1人すぐに手があがりました。
コミー株式会社の小宮山社長です。
そして、もう1人名古屋でスーパーのチェーン展開をしていた社長。

後日、小宮山社長のもとにご訪問すると、「いくら必要ですか?」と聞かれ、資本政策のこともあり500万円をお願いしました。
決算書を持参したのですが、大赤字の決算書も見ずに、その場で即答をもらえたことが衝撃でした。
そして、事業計画のことより、「顧客満足とは何だ?」「製品の品質は絶対的な最高品質を保たなくてはならない」「大きな決断をする時はどうする?何を根拠に決める?」「メーカーから見たユーザーは2人いる、買ってくれる企業と使ってくれる人だ。買ってくれる企業ばかりを見るな」など、じっくり時間をかけて大切なことを教わりました。「若者の野心ではなく、共に学び、共に喜ぶ」という言葉もいただきました。

このやり取りは今お会いしても変わっていません。
決算書を持参してもそれは横において二の次。顧客と品質を最重要視する姿勢を教えていただける貴重な株主です。

「志が高い個のサロンを徹底的に支援する」というのを『coming-soon』のコンセプトに、強き者を強くするシステムではなく、志を高く経営しているサロンオーナーと個性のあるサロンの徹底的な支援を目指すことに決めました。

リリースはできたものの、相変わらずの資金難が続く

これを機に、3ヶ月の失業保険でつないでいてもらっていた創業メンバーの橘高(現・取締役)を戻します。ちょうど支給が切れるタイミングでギリギリセーフでした。
しかし、システム開発には困難を極め、外注先とのトラブルにも度々見舞われ、ミニマムスタートをするはずだったのにリリースまでに1年を費やしてしまいました。

2003年11月(26歳)に『coming-soon』をリリース。
ストック型のASP事業は、先行投資が大きいため、システム開発、販促広告費が重くのしかかり、相変わらず資金繰りに苦労していました。

この時代は、私と創業メンバーの橘高(現・取締役)と私の妹の3人でやっていたのですが、私が開発と販促と営業をしながら、投資してくれる方を回り続けるという精力的な日々を過ごしていました。

この時の資金集めでは、上場をも考えてプレゼンをして、出資をしてくれそうな方を回りまくり、その一つに北矢先生から紹介してもらったマザーズ上場企業に出資のお願いもしていました。プレゼンが功を奏し、その企業からは2000万円の資金調達に成功しますが、出資を受けることに悩みに悩んで、結果的に直前で長期借入に変更をお願いしました。これにより返済は重くのしかかりますが、どうしてもグループ会社入りすることに、そして子会社化されることにしっくり来なかったのです。(それから数年後、結果的にこのマザーズ企業は業績悪化によりファンドに買収されました。あの時に子会社になっていたら今頃どうなっていたのだろう・・・。)

商品開発、マーケティング、営業をやりながら資金集めに奔走の日々

莫大な広告費と開発費が重くのしかかり、損益分岐点がなかなか越えられず、その後も、資金集めに奔走。
2006年(28歳)の年明けで、出資に応じてくれたお一人が松尾ジンギスカンの松尾社長(現在)でした。

数千万円の希望額を満額回答で応援していただけることになり、感謝と共に、この期待に応えなくてはならないと改めて決意をしました。松尾社長は、月次で報告する予算と実績を厳しく指摘し、”善良な外圧” として私のケツ叩き役になっていただきました。その後も追加投資をいただき、他に北矢先生などからの追加投資もあって、現在も”善良な外圧”としてご支援いただいています。

人づてや北矢先生の紹介などもあり、窮地に立たされると手を差し伸べてくれる人や会社が現れ、多くの方々に助けていただいたことで、資金だけでなく、考え方、知恵、アイデアなど多くの方からの支援により当社は成り立っていることを改めて感じました。

学生時代を含めた20代はネガティブでストレス過多な経験も非常に多く、これがその後の人生に大いに役立ちました。
特に、資金繰りによるストレスは強く、眠れない日が続き、睡眠導入剤を使っても眠れない日もあり、酒と睡眠導入剤の合わせ技をやっていました。
そして、強烈な頭痛と腰痛、肩こりに悩まされていた時期でもあります。
(これはその後に出会う日野先生の背骨コンディショニングで見事に解消してもらい、今では私自身がそのパーソナルトレーナーにまでなってしまいました。)

父と母は、この頃8:30~22:30まで年中無休で商売をやっていました。
私が両親に借金をしていた身分で、両親より短時間労働はありえないと思い、私は最低でも8:00~23:00くらいまで働き、土日祝日休むこと無く働いていました。しかし、私が28歳以降、父が病気による入院を繰り返すことをキッカケに、健康について考えるようになってきました。

単月黒字、通期黒字が達成できるようになってくると、他の事業にも手を出したくなってきます。
興味が尽きないので、よそ見をしだす悪い性分です。

その度に北矢先生から、「なぜお前がその事業を始めなくてはならないのか?コアコンピタンスは何だ?なぜお客はあなたの会社からそれを買わなくてはならないのか?2つも3つも並行できるほど能力に余力はあるのか?」と、至極まっとうな指摘を受けました。

大切なことを何度も言われているのに、過信で盲目になっていたのです。
1つのことに徹底的に集中することの大切さに改めて気づかされました。


30代前半

数字だけを追いかける規模拡大を目指すことに終止符、7つの基本コンセプトをつくる

売上が1億円を超えれば今の悩みは消えているんだろうなと思っていましたが、2億円を超えても、3億円になっても・・・結局悩みは消えませんでした。
新たな悩みが出てきて、新たな課題が出てきて、思い描いていたような極楽快楽の状態になることはありません。

売上を追いかけ続ける、規模を永遠に拡大することにどんな意味があるのだろうか?そう考えだした時期。
「7つの基本コンセプト」のひとつに、むやみやたらに「規模拡大を求めない会社」という一文を追加しました。
私にも会社にも事業にも最適規模があるはず。むやみやたらな売上目標には限りがない。そう考えて、心の充実、生活の充実、顧客への貢献に重点を置くことにシフトしていきました。この考え方は株主から理解もいただけました。

2010年4月(32歳)に、天外塾で天外司郎先生から健康維持のためにゴッドハンドを紹介されたのをキッカケに、背骨コンディショニングの日野先生と出会いました。日野先生に背骨矯正と体操指導をしてもらってから激的な体改善ができ、高校生から悩まされていた頭痛、腰痛、肩こりは解消されてきました。この時には、私が指導者側になるとは想像もしていませんでした。

2010年8月(32歳)
株主・顧問である北矢先生の何気ない一言がキッカケで、海外出産を考え出し、悩みに悩んだあげく、米国にて出産から育児を3ヶ月やることに決めました。

ちょうどこの頃、「7つの基本コンセプト」を策定中で、その中の1つに、今までの組織原理を超越した「時間と空間の制約を超えた自律・分散・協調の会社」というのを考えていました。これを身を持って経験できる大いなるチャンスであると考え、チャレンジすることにしたのです。今では当たり前になったリモートワークを、2010年に試行錯誤をはじめました。

滞在の場所はハワイを選択。会議はSkypeで行い、日常はチャットやメールなどで業務を遂行。
育児の楽しさを実感できました。

当時のブログ投稿はこちら
イクメンプロジェクト1
イクメンプロジェクト2
イクメンプロジェクト3
イクメンプロジェクト4

2012年6月(34歳)、第二子誕生。育児が楽しくて楽しくて拍車がかかる時期へ突入。

当時のブログ投稿はこちら
ギリギリ、バタバタ・・・二人目出産の裏側

日本初なのか、ビジネスモデル特許を2つ取得、その確率0.64%

2011年6月のある日、特許出願でお願いしていた弁理士事務所から封書が届きました。
中を見ると、特許庁から届いた書類の転送で、「特許査定」というものでした。
「特許査定」と書いてある書類だ。

「この出願については、拒絶の理由を発見しないから、特許査定をします。」

全く日本語の意味がわかりません。
「特許査定」を検索エンジンで調べてみると、「特許をすべきという審査官の最終判断」とある。これを読んでもよくわからず、添付されてきた書類には特許料納付のお知らせも付いていました。そうか、これは特許が取れたということか!!やっと理解ができました。

ここまでおよそ15分。
半信半疑でようやく特許が取れたということに気づいたのです。
でも、なぜか喜ぶに喜べない。ぬか喜びだったらどうしよう、と変な気も回っていました。
私としては、弁理士事務所から「鷲田さん、おめでとうございます!取れましたよ!」と電話の一本があった上で書類が届くくらいの演出が欲しいところですが、日本では指折りの大きな弁理士事務所。そんなことやってたら毎日電話ばかりの仕事になるのか・・・と思ったりしました。

そしてその半年後、もう1つ、特許を取得。
当時、日本のビジネスモデル特許の審査は大変厳しく、取得できる確率が8%程度だと言われていました。それが2つとなると0.64%の確率です。
弁理士と話をすると、1つのサービスでビジネスモデル特許を2つ取るというのは聞いたことがない、もしかしたら日本初なのかもしれない、と言われました。

日経トップリーダーに掲載される


30代後半

背骨コンディショニングで日野先生に背骨矯正と体操指導をしてもらってから頭痛、腰痛、肩こりから開放された日々を過ごしていましたが、肩が弱く、子どもたちの抱っこで四十肩になりつつありました。
日野先生に腱板断裂を警告され、やっと重い腰を上げて筋力アップのトレーニングを開始したのが2015年3月(37歳)。

ジムでパーソナルトレーナーをつけての筋力アップトレーニングを継続してできるようになり、また父を癌で亡くしたこともあり、体のことや健康に強く意識を向けるようになる。

美ボの間

2015年10月(38歳)、背骨コンディショニングの勉強を開始。
2016年4月、パーソナルトレーナーに合格。

福利厚生「美Bodyコンディショニング」を開催し、ゆるめ体操指導や背骨矯正を従業員向けに自ら始めました。
子どもたちと家族と自分の健康の維持継続のために、体の仕組み、食事、運動を勉強をしたいと思ったのがキッカケで、そして従業員の健康維持の福利厚生のためにも貢献できるよう日々勉強を継続中です。

自宅では伸び伸びとゆるめ体操がやれないという声や業務中の疲労回復にやりたいという意見を汲み、社内に「美Bodyコンディショニングの間」、通称「美ボの間」を作っていつでも利用可能にしました。

心身統一合氣道

2017年4月、心身統一合氣道で、息子と合気道を始めました。
2016年12月に原因不明の嘔吐と胃痛に悩まされ、「ストレス」と一言で片付ければそれだけかもしれませんが、これまでも1年半に1回くらいのペースで発症するので合気道を通して心身統一を勉強することに。

「心が身体を動かす」を学び、正しい姿勢、気の呼吸、心身のバランス、セルフコントロールを学びました。


40代前半

北矢先生との別れ

2021年4月21日、当社株主でもあり、顧問でもあった北矢行男先生が癌で亡くなりました。享年76歳。
先生は経営戦略のご専門で、ソシオビジネスを通して社会貢献型企業の育成に尽力しており、私が18歳の多摩大学入学で、教授と生徒として出会いました。

それから25年の間、人生のメンターであり、私(当時43歳)の人生の半分以上を支えてもらいました。
今の私があるのも先生のお陰です。

2020年10月2日、先生から何度も着信が入り「至急電話ください」とメッセージも入りました。こんなメッセージは今までありません。ただ事ではないと察して、子供たちと外出中で騒がしい場所だったので、すぐに移動して電話をかけると、緊急入院したと聞かされました。

お腹の調子が良くない、というのを私は薄々察していましたが、この時はもう既に末期癌であることを先生も含めまだ誰も知りません。

そして退院後の先生から電話で聞いたのが、余命宣告です。
ショックでした。言葉が出ません。

すぐにでもお見舞いに会いに行きたい気持ちでいっぱいでしたが、コロナ渦。病気治療中の場所には気軽に足を運べない状況です。その後、自宅療養となった先生とは電話でやり取りしましたが、電話の声からも体が辛そうなのは伝わってきます。

先生と最後に会ったのは新型コロナが騒がれだした2020年1月。
「長生きするためにも、コロナ問題が落ち着くまでは電車にもタクシーにも乗らない、混雑した場所にも行かないし、誰にも会わない」と言われ、私とは月に何回かの電話のやり取りに変わりました。

写真の切り抜き

先生とは15年以上、東京駅近くの丸ビルにある「招福楼」で、毎月のようにランチ会をしていました。
同じ店で、同じ時間に、いつもの個室で、料理が運ばれてきても話が止まることなく続きます。
何紙も購読されている新聞から私に合うものを厳選した切り抜きを毎月いただき、それについて解説をもらい、世界経済、ビジネス、健康、私生活について、話題は尽きません。

アドバイスされたことはすぐに考え実行し、翌月にはフィードバックをします。
上手くいったこと、いかなかったことを報告し、また新たな視点やアドバイスをもらい、チャレンジします。どんなアドバイスも素直に受けて、つべこべ言わずにまずはやる、これが先生との日常のやり取りでした。

2時間でお店を出て、いつものカフェに移動してさらに1時間、合計3時間です。
私の成長のための起爆剤を感じられる至福の時です。

お会いすると必ず最初に「体調はどうだ?」と声をかけていただけます。電話をいただく時も、必ず最初に聞かれます。

「健康がなければ何もできない、仕事で健康を台無しにするな」と常に言われました。
先生の日常的な声掛けが、私の健康意識を大きく変え、今でも持続できていることに寄与しているのは間違いありません。

私が33歳の時に父をスキルス胃癌で亡くし、それから健康に対する向き合い方が変わりました。どうしても仕事優先で、若さゆえに自分の体は二の次になり、体調を頻繁に壊していた時期でもあり、先生からは「仕事の優先順位を下げろ」と何度も何度も言われます。

日々、目の前のことに集中しているせいで、俯瞰できていないことに気付かされ、達観が甘いことに我に返ります。自分ではできているつもりでいるが、できていないことが余りにも多い。
視野が狭い、考えが甘い、詰めが甘い、先生からの指摘は、私を常に奮い立たせてくれます。私は、褒められるより、ダメ出しされたほうが性に合っています。

先生との時間で達観でき、人生の優先順位を改めて見直せます。
未熟な私にはこの時間が何よりも大切で、先生の人生の考え方、モノの見方、戦略的思考、これらのエッセンスを多大に吸収できました。

先生のお陰で、今では健康優先、育児優先で取り組むことができており、徹底した食事管理、日々の16時間絶食、睡眠時間を削らない、週3回の筋トレ、週2回のスロージョギング、毎日1時間の瞑想、そして自ら学んだ背骨コンディショニングで骨格の歪みや不調を治します。

北矢先生と株主の小宮山社長北矢先生、株主の小宮山社長、鷲田
右、北矢先生。普段は写真を撮ることが全くありませんが、株主の小宮山社長(左)もご一緒したので記念に。(2019/8/30 撮影)

今の私の優先順位は、
健康
家族
仕事
です。この順番を崩すようなことがあってはならないと日々強く意識しています。

37歳頃からは更に意識と行動を変え、少しずつ少しずつやることを増やし、継続できるようになりました。やろうかな、どうしようかなと考えることもなく、歯磨きのように、時間が来れば淡々とやります。

考えると「やらない理由」しか考えていないわけです。習慣を作るには、歯磨きのように何も考えずに当たり前のようにすること。これが一番大変ですが、先生からの声掛け、意識改革の指導をしていただいた賜物です。

数年前、先生から言われた言葉で、
「お前は早くに父親を亡くしているから、俺が父親代わりみたいなもんだからな。」
またある時には、
「何でも手堅いから、お前だけは信用できる。俺に何かあったら家族の相談にのってくれよ。」
こう言われたことがとても意外で、とても嬉しかったことを今でもよく覚えています。

先生は、こだわりがとても強く、群れることもなく、世の中の曲がったことに決して同調せず、リスクヘッジは最優先、不合理なことには思いもつかない解決策を見出してきます。
私生活では、健康診断を受けず、病院には行かない。「健康診断で病気を探しに行き、結果が出るまで怯えるやつはバカだ。それよりも病気にならない体づくりが何よりも大切。」という考えをよくおっしゃっていました。

歯科でも2005年に認可になったインプラントは、歴史の浅さや手術による後遺症、死亡事故があるがゆえに信用できない、だから俺はやらない、と。
そして、「癌になっても俺は絶対に手術をしない」と昔からおっしゃっていましたが、最期は有言実行です。癌が発覚しても手術を拒み、入院も早々と切り上げ、在宅緩和ケアに移行しました。そしてすぐに身辺整理を始めました。
これは先生が常日頃おっしゃっていたハードボイルドな人生ですが、あまりの潔さとは裏腹に、私たちは延命治療を望むわけです。しかしそれは叶いません。先生らしい人生です。

奥様もほぼ同じ時期に亡くなられ、遺産整理を手伝いに先生のご自宅を訪問し、本棚にあった先生が執筆された本や先生が読んでいた本もいただいてきました。絶版となった先生執筆の書籍を開いても、今でも通用することばかりです。

大切なことは不変であり、この根底が揺るがされることはなく、新しい時代の流行りの「やり方」に右往左往されず、それを自分に合わせてアレンジできるわけです。これは私自身、忘れてはならず、常に意識していかなければなりません。

私はこれから、先生の教えをどう活かせるか、何を残せるか、これから始まる新たな事業の立ち上げには先生が大いに賛成してくれたからには、何としても成功しなければなりません。
社会貢献のために、先生への恩返しのために、自らの挑戦のために。

北矢行男先生の略歴

■1945年〜 島根県津和野生まれ。岡山大学卒業。

■1969年〜 (社)日本能率協会 産業研究所。経営研究室長。

■1982年〜 長銀総合研究所に移籍。調査企画室長、事業開発部長、主席研究員などを歴任。城西大学情報科学研究センター教授。

■1993年〜 多摩大学経営情報学部・大学院修士課程教授。多摩大総合研究所所長。

■2021年4月21日 病気により死去。76歳没。

82〜83年の戦略経営ブーム、84〜85年ホロン経営ブームの仕掛け人。専門は近未来企業論・経営論・戦略論。ソシオビジネスを通しての社会貢献型企業(ソシオカンパニー)の育成。

北矢行男先生の著書はこちら